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それぞれの“冬ソナ”3 2004年11月03日(wed)

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 研修は1年目は総義歯、2年目は歯冠補綴、そして3年目はメタルスプリントと移っていくのです。当初の事実に驚愕した受講者は、実力的に無理なのか、過去の過ちの罪滅ぼしなのか、わかりませんが、自分の仕事をあきらめて去っていくものもおりました。
 あるものは、家業の電気屋を引き継いだり、あるものは農業に従事したりしているのです。実際に半農業半技工という技工士がいるのです。このかたは優秀でした。天の恵みを育み、技工に生かす工夫をしているのでしょう。市波氏がいう百姓の眼です。風がふけば、稲穂が傾く、身体で考える治療です。
 市波氏の言葉で忘れられないのは、
技工士の士は武士の士であると、君たちは侍(さむらい)なんだ。
という言葉です。

 たとえ貧しくても、志(こころざし)を失うことなく、希望を持って仕事に向かってもらいたいという親心なのです。

 やさしさの心の反面、研修は実にきびしいものでした。教科書はありません、いわゆるマニュアルのたぐいは一切ないのです。頭で考えてはいかん、身体で習得せよというかのようです。
 いいか悪いか聞きにいっても、手取り足とりの答えなどありません。つまり偶然よいものできても、その後が続かないレベルでは、この先も通用しないことを無言に表現しているのです。そして1度くらい習ったもの程度で、習得できるものではないことを意味しているのです。一生ものにできない人もいます、逆に先見の明があり、次々に明快に答えを当てていくものもいます。わかるものにとって、すべて順調にみえ物事は円滑にうまく運んでいるようにみえます。ところが、実際の問題は習得し始めてからまたまた起こるのです。まるで「冬ソナ」です、一難さってまた一難なのです。
 例えば、夫婦歯科医師であり、共に働いていたらどうでしょう。つまり片方が習得してもう片方は聞いてきたものを教えてってスタイルだとすると、実際この夫婦は、これが原因かどうかわかりません。「離婚」されてしまったのです。また日ごと噛み合わせにのめり込み家庭を顧みないで、やはり離婚の原因になってしまった例もあります。習得した技術にかわって家庭が崩壊しては、意味がありません。

 このように既存の診療体系や保険の診療とはまったくかけ離れたものなのです。ニュアンス的に言えば、つまり絵に描いた餅のように、餅までは出来ても、食べることすなわち実用的な段階でまた止まってしまうのです。やがて1本の治療が、現行制度上では一番むずかしいことがわかるようになってきます、主訴だけ治すという意味からです。

 最後に巻物のような修了証をもらうのです、そこに書かれている自分の名前の達筆さで、研修中の実力をはかられたのです。市波氏本人に直筆で書かれた修了生に名前は、優秀なものは文字が大きく、そうでないものは文字が小さく、研修とは違い誰もが容易にわかるように、眼に明らかに描かれているのでした。
 その後、”市波コース”研修は開かれませんし、今後とも開かれることはないと思います。まさに内容同様幻のような研修になっていたのです。
 真実に触れた数少ない人間として、得られた誇りが今の気持ちを支えているのです、なににも代え難い喜びに満ちています。出会えてよかったと心から感謝しているのです。
 あなたの「治療」は、ハッピーエンド? それとも・・・

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