死体に接するのは初めてではない。親族が死んだこともある。「親しい誰か」の死であるという面が強すぎて、死そのものに向き合うという感じ方は出来なかった。解剖では、死体そのものを見つめなくてはならない。解剖台に横たわる遺体は、見知らぬおじいさんであった。顔の部分は布で多い隠されているが、胴体はまさしく人間の形をしている。何年か前までは生きて動いていた老人が、目の前に横たわっている。遺体をじっと見つめる僕に対して、友人が言った。「死体って、モノだよね。」なんて不謹慎な!けれど、僕はその時、友人の発言をもっともだと思った。ほとんど同じような感想を抱いていた。なぜ、死体がモノに見えたか。それはきっと、遺体から「生きたい」という意志が、まったく感じられなかったからだろう。目の前に横たわる人体は、想像していたよりずっと安らかに見えた。
生と死との境は人間が恣意的に作り出したものだと考えると、なかなか面白い。僕らは普段、心臓が止まったり脳が止まったりすることだけが死だと思い込んでいるが、その考えにとらわれる必要はないのだ。
「人は、ある瞬間から急に死ぬのではないよね。心臓が止まり、脳が止まり、細胞が完全に土に返るまで、時間をかけて、ゆっくりゆっくり死んでいくんだよね。」それまで『心臓が止まる‐呼吸しなくなる‐思考が止まる』などといった変化でしか捉えられなかった死に対して、 豊かなイメージを持てるようになった。こう考えると、死を、遠く、自分とはまだ関係の無い出来事と考えることは出来なくなる。むしろ、とても身近で、日常生活の根底を流れているものと思えてくる。人は毎日、昨日の自分を死なせながら生きている。生きた人は、一部、死んでいる。そして死体は、一部、生きている。解剖実習は、ともすれば見失いがちな「人体の感覚」を取り戻させてくれた。
死について考える機会を与えてくれた。
硬組織を除去した骨内の走査電子顕微鏡像を見れば骨内の骨細胞が互いに多数の突起で結合している様子がわかる。そう骨は互いに環境で変化し続けるものであるのです。動物はいろいろな骨の組み合わせでによって固有の外形が作られます、人間は200余りの骨によって作られます。外形は胎生初期に作られ、そのころは骨はまだ軟骨でその後少しずつ骨化し成長して、運動したり内臓を保護するのに適した硬さになります。骨は一見硬い組織でほとんど変化しないようにみえますが、骨折の修復でわかるように、「眼には見えない」レベルで毎日ダイナミックに大きな変化をしているのです。
歯槽骨も年齢により歯の置かれた環境で刻々と変化をしています。すなわち骨は生きているのです、
外界からの刺激により、その目的にあった形に変化し続けているのです。良く噛んでいれば、ダイナミックな元気のよい形であり、逆にシカで噛まされている幻想の世界では、イリュージョンな顎であります。
症状がでてふと現実にかえって来た時では、すでに遅すぎます、骨を改変するには時間が必要なのです。
死体は確かに生きていません、しかし生きている人より生命力に富んでいたことがわかります。
「顎関節がきれいな人は8番まで歯がすべて生えている人ばかりです。」
食事に感謝し、すべて健康につながっていたのです。良く噛むことが昔から伝承してきた自然の智恵で親知らずを抜くことなしに、すなわち生える場所ができるようになるまで、きわめて順調に成長してきた明かしです、ですからどのような最後であったかもわかります。家族に迷惑をかけない、ある意味理想的な死なのです、それは自分の歯を持ち、正しく噛んでいるかどうかです。
インプラントを入れた寝たきり老人は悲惨ですから、、、、。
死んでいる生きた人はゾンビのようにただ生きることに執着はしているが、けっして人間に戻れない。ちょうどシカでスプリントを入れている人間のようにね。
どちらの進行も眼には見えません。選ぶのは自由です。正しい治療で修復を選ぶか、シカで、、、。