昔、昔、中国でのこと。
国境の塞(とりで)近くに住んでいた老人の馬が、どこかへ逃げていってしまうという事件がありました。 老人は、その馬をとても大事にしていたのです。
近所の人々は、「残念でしたね」「不幸な目に遭われて、大変ですね」などと口々に慰めのことばをかけましたが、老人は、
「いいや、これは良いことになるかも知れない」
と、平然としています。
なるほど老人が言ったとおり、しばらくすると馬が戻ってきました。それも、別の立派な馬を何頭も、一緒に連れてきたのです。
人々は、「これは、本当に良いことになりましたね」と祝福しました。ところが、今度は老人は苦笑しながら言います。
「いや、これは悪いことになるかも知れんな」
案の定、新しい馬を気に入って乗っていた老人の息子が、落馬して、足の骨を折る大ケガをしてしまいました。
近所の人たちは、「とんだ災難に遭われましたな」と、お見舞いに集まりますが、老人は、
「いや、これは福になるに違いない」
と答えます。やがてその地方に戦争が起こり、老人の周りの若者たちは、兵隊として駆り出され、多くの者が命を失うことになりました。老人の息子だけが、足のケガのおかげで戦場へいくことを免れ、命が助かったということです。
……これは、ご存知「人間万事塞翁が馬」という故事成語の元になったお話で,中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。
「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。総合すると、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。
良いと思ったことが、結果的に不幸になり、災難に思えたことが幸運にもなる。人生は、このように予測や検討がつかず、自分の思い通り一筋縄ではいかないということを教えてくれているようです。
そして、生きていくうえでは、さまざまな出来事に出会いますが、それに対して勝手に、「良いこと」「悪いこと」と判断していることに、一喜一憂している私たちをあらためて戒(いまし)めているというのが本当の主旨なのかも知れません。
シカの治療での「出来事」を、人それぞれが勝手に判断して、喜んだり、悲しんだりしています。あるいは自分で勝手に作り上げた、ありもしない「幸福な出来事」「不幸な出来事」に振り回されてしまい、大切な自分を見失っているのです。
「人間万事塞翁が馬」(にんげんばんじさいおうがうま)同様に、噛み合わせの吉凶や禍福は、転変極(きわ)まりがないということを頭にしっかりと刻んでおいてください。。
正しい治療での予測は、安心してできるものです。なぜなら診断と治療は表裏一体であり、西洋と東洋を融合させ、異なって感じる惑わされた環境を整えて、元に戻していく術式なのです。この方法で早く、忘れてしまった大切なものを取り戻してください。
無理に正しい治療を勧めたりはしません。もしかすると期が熟していないかもしれませんし、決心がつかず今ひとつ悩んでいるかもしれません。そして迷う状況下では望んでいる良い結果が生まれないのです。
そして必ずあなたが、考えている通りの展開になります。「決められない」ことと「治らない」ということは、いっしょのことなのです。治療の難易度とは、症状の大小や高レベルの術式の必要性ではないのです。受診する前の方へはだかる心の大きな壁が、治る人と治らない人との本質的な大きな差であると思っています。
どの局面においても、正しい、正しくないの判断は、最終的にKr.に問うものであり、術者が決定するものではないのです。だからこそ、自分の勇気をふるって選択した自分自身の決断に、あなたは純粋で少しでも迷いがないから、私は自信をもって勧められるのです。